「滑り落ちる坂」と「割れ窓理論」はよく似てる

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「滑り落ちる坂」と「割れ窓理論」はかなり似通っています。前者は「1つ許せばいずれ100許さねばならなくなる」のような、1つの小さな決断が大きな破滅を招くという言い回しの論理的誤謬で、中間段階が飛躍していたり根拠が薄弱だったりします。後者は「割れた窓を放置していると『誰も気にしていない』と受け取られ治安が悪化していく」という理論で、細かい秩序を守ることが大きな秩序崩壊を防ぐという考え方に基づきます。

「滑り坂」と「割れ窓」の違いをChatGPTに聞いてみると、両者は似て非なるものとして「滑り坂は説得あるいは倫理的警告」「割れ窓は予防ないし政策的警告」と教えられました。しかし、生成AIが力説したにもかかわらず決定的な相違点は見つかりませんでした。強いて言えば、中間が抜けていれば滑り坂、秩序の崩壊を危惧すれば割れ窓というくらいで、両者が混在するケースも往々にしてあるという具合です。

襲われる!

例えば「マルティン・ニーメラー牧師の詩」はどうでしょう。
彼らが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声を上げなかった。私は共産主義者ではなかったから。
次に彼らが社会主義者と労働組合員を攻撃したとき、私は声を上げなかった。私はそのどちらでもなかったから。
次に彼らがユダヤ人を攻撃したとき、私は声を上げなかった。私はユダヤ人ではなかったから。
そして、彼らが私を攻撃したとき、私のために声を上げる者は誰もいなかった。

この例に対してChatGPTはこう答えました。「本質的には滑り落ちる坂だが、割れ窓理論としての要素も含む」

具体的には、「抑圧や迫害を初期段階で止めなければいずれ自分にも及ぶ」「今日ここで止めないと、明日犠牲になるのは貴方だ」という意味では滑り坂、「一度でも抑圧を許せば社会の倫理秩序や連帯感が損なわれ、無関心と恐怖が常態化する」「最初の窓が割られ、それを放置したことで社会の連帯という秩序が崩壊する」という意味では割れ窓なのだそうです。

つまり、趣旨が「いずれ自分も迫害される」というなら滑り坂で、「行き先が秩序の崩壊だ」というなら割れ窓だということです。それなら受け手次第ということになりませんかね。秩序崩壊への警告であっても、都合が悪ければ滑り坂(詭弁)という事にして耳を塞げばいいのですから。

誤謬(詭弁)でない滑り坂もある!

もう少し突っ込んでフォン・ガーレン司教(説明は割愛)もどうなのか聞いてみました。やり取りを要約すると「滑り落ちる坂=誤謬(詭弁)とは限らない。滑り落ちる根拠があれば、正当な倫理的警告になりうる」みたいな感じになりました。

事実や歴史といった、確かな根拠や中間段階を示すものがあれば、滑り坂でも正当な警告になるという訳です。そもそも誤謬(詭弁)そのものが、使い方や文脈や根拠によっては正々堂々とした説得にもなり得る可変性を有しています。寧ろ、相手の誤謬(詭弁)を殊更に指摘する方が対話の姿勢として怪しいのかもしれません。

それで滑り落ちる坂と割れ窓理論の関係に戻りますが、結論としては「世界には自分のそっくりさんが3人いるという。そのうち2人が出会っている状態」となりそうです。双子ではないのですが、あまりにもよく似ています。

遥けき博愛の郷

遥けき博愛の郷

大学4年の時に就活うつとなり、紆余曲折を経て自閉症スペクトラムと診断される。書く話題のきっかけは大体Twitterというぐらいのツイ廃。最近の悩みはデレステのLv26譜面から詰まっていること。

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