「真に救うべき弱者は、救いたいと思う姿をしていない」に続くのは
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いわゆる名言や格言の中には、全体の一部しか抜き出されていないがゆえに歪曲して伝わっているものが数多くあります。有名なのが「学問のすゝめ」における「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」ですね。本来は続きも合わせて「生まれの貴賤ではなく学問を修めたかどうかで人生に差がつく」という意味で学びの重要性を説いたものですが、あの部分だけ抜き出されたせいで人間は平等だという平易なメッセージに変わってしまいました。
或いは、大衆が都合よく解釈したせいで捻じ曲げられた可哀想な名言もあります。今でも関係者が公式ウェブサイトで火消しに励んでいる「お客様は神様」などですね。あれは確か浪曲を披露する際の心構えを説いたものだったと思われます。
そこで「真の弱者は救いたい姿をしていない」についてですが、これ自体は続きの句がありません。どちらかといえば三波春夫さんサイドです。誰が言い出したのかは分かりませんが今は結構広まっており、好き勝手な解釈が為されています。特に「みいちゃんと山田さん」が流行ってからは得意げにこれを持ち出す人々が大量発生しました。
「真の弱者は救いたい姿をしていない」にはどのような句が続くのか、そしてどのような意味を持つのか、少し考えてみましょう。
福祉の格言として
真の弱者は救いたい姿をしていない。だからこそ法や制度が必要だ。
これの場合は福祉や医療における格言となり、本来の意味とされていますが、出処が不明である以上は実際どうなのか分かりません。ただ、最も高尚かつ建設的で「格言」に相応しいのはこちらであることは疑いようもないでしょう。
困窮者とは大人しく救われてくれる者や、あわよくば恩返ししてくれる者ばかりではありません。「貧すれば鈍する」という言葉の通り、大抵は自分のことが精一杯で他に気の回らない人々です。ゆえに、可愛げのない反応は珍しくないです。「感謝がない」と逆ギレするのも時間の問題ですね。
特に福祉分野は人情や熱意だけで成り立つものではなく、寧ろそれらに依拠するのは虐待や依怙贔屓などにつながる恐れがあります。そこで必要となるのが感情を廃した事務的な存在、具体的には法や制度といった人を超えた仕組みです。先達が法や福祉制度を整えてきたからこそ、現在のセーフティネットがあり、人間らしい社会の形成に大きく貢献しています。
もし感情を廃した救済の仕組みがなければ、「救いたい人だけ救う」という本能だけのやり取りだけで終わっていたことでしょう。かつて韓非子は情や道徳でなく法で統治する「法治思想」を唱えましたが、人間の限界を低く見積もったのもかつて吃音で周囲から蔑まれた「弱者」としての経験から来ていたかもしれません。ありうべき可能性を考慮した「プロ」の回答です。
切り捨ての正当化として
真の弱者は救いたい姿をしていない。ゆえに救えなくてもしょうがない。
あらゆる専門分野に通じることですが、知っている人より知らない人のほうが多数派です。それは福祉すら例外でなく、福祉の“ふ”の字すら知らなそうな人々が訳知り顔で語る場面にはしばしば遭遇していることでしょう。共感とキャッチーさを人倫よりも優先する大衆が選んだのは、こちらの意味でした。
これは「救済されないのは救済されるに足る態度をとらないのが悪い」という自己責任論であり、切り捨ての正当化です。利益や恩返しがなければ救うに値しないという訳ですが、どうも自分が救済者側だと高く見積もっているようですね。なんとも痛々しい勘違いです。
ほとんどの人は大なり小なり「自分は善人である」という根拠なき自認を持っています。すなわち、困っている人がいても助けられるという根拠なき自信を持っています。しかし、いつかは「救う能力がない」という事実に直面し、認知的不協和に陥ります。そこで精神の防衛機制としてこのように正当化します。「あれは救えなくても仕方がないタイプであり自己責任だ。自分に能力がないのではない」と。
人情だけでの救済には早々に限界が来ます。それ自体は仕方のないことです。しかし、自分の無能や選り好みを他人のせいにして正当化していい理由にはなりません。そもそも救えない姿(理由)は「醜い」「攻撃的」「自分勝手」に限らないのですが、その辺りの経験や想像力にも欠如が見られますね。これでもまだ「凡人」の回答です。
ジェノサイドへの願望として
真の弱者は救いたい姿をしていない。ならば死なせてやるべきだ。
救えないなら殺せという明らかに論外の答えもあります。「みい山」の感想にぶら下がりながら「出生前診断があれば」「産婆が締めていれば」「断種していれば」と最低限の倫理や知識すら存在しないフリーライダーが跋扈していました。そして彼/彼女らは「植松聖」「T4作戦」「旧優生保護法」などを現代に甦らせ保全すべきレガシーとして礼賛していました。
彼/彼女らは「格言」のように広まっているこれを嬉々として引用しつつ、「弱者は生まれながらにして罪」「弱者が生きることは罪」「弱者が弱者を産みなおすことは罪」と説いて回ります。ジェノサイドへの願望を滾らせながら、ひとりホロコーストを実行する妄想に耽ってオープンウェブで戯言を垂れ流す、それが一人や二人でないのはとても残念な話です。聞いてやるに値しない、ディープウェブに埋めてやるのが相応の「論外」の回答です。
そもそも救いたい姿とは
そもそも「救いたい姿」を外見上のものや実利だけで考えていること自体が片手落ちの浅い知見に過ぎません。福祉制度は星の数ほどありますが、辿り着くまでの導線は自分で調べて知っておく必要があります。その知識がないこともまた「救いたくない姿」の一種です。
また、清貧、やせ我慢、武士は食わねど高楊枝といった姿勢もまた「救いたくない姿」となります。自分が救われるための制度を頼りにしないのは、救われることを放棄しているのと同じですからね。いくら救済の制度が整っていても、それを知らなかったり遠慮したり避けたりしていては無用の長物と化します。
最も手に負えないのが、支援の手を拒絶するケースです。制度を利用しないだけならばまだしも、悪口や陰謀論まで吐きかねない危険なケース。どれだけ歩み寄ろうとしても決して心を開かないケース。これはまさに「福祉の限界」と呼べるものです。ここまでくると、もはや刑務所と出口支援しか残っておりません。


