障害受容、しないままでは許されません

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Photo by Towfiqu barbhuiya on Unsplash

どの障害者も種類や等級によらず必要となるのが「障害受容」です。障害受容とは、自分(あるいは身内)の障害と折り合いをつけ自身の一部として受け容れていくことで、済ませない限り幸せにはなれません。それどころか延々と呪詛を吐き続けることで、同じ悩みを持つ不特定多数に迷惑をかけ続ける存在となってしまいます。受容に至るまで個人差はあるでしょうが、しないままでは許されません。

障害受容は、後天的に何らかの障害を負ったときや生まれた子に障害があると分かったときにも必要となります。それは例えるなら大人の階段の上りなおし。診断の下りた時点が障害受容の始まりなので、大抵は後天的に大人へのプロセスが増えるわけです。

世の中の「しなくてはならないこと」には二種類あります。ひとつは「本人がそう思い込んでるだけで、本当は逃げてもいいこと」、もうひとつは「本当にしなくてはならず未達成は認められないこと」。障害受容は言うまでもなく後者で、卒論や確定申告といったものと同じカテゴリです。卒論を出さなければ卒業できないように、障害受容が出来ていなければ一人前の個人として扱われる道理などありません。中退や留年は卒業とは全く違うものです。

障害受容に至るまで

障害受容に至るまでの心理的プロセスは、大抵の人間が以下の5段階を踏んでいくことになります。こうして見ると、グリーフケアと似た部分があるのかもしれません。

ショック期
発達障害と診断された、後遺症で障害を負った、子どもに障害があると分かった等、「当事者」としての人生はここから始まります。直面する事実に対して理解が遅れている状態です。これは長く続かず少しずつ現実を認識できるようになりますが、同時に「自分はそうじゃない」という逃避的な感情も芽生えてきます。

否認期
自分が「当事者」だと認めず現実から目を背けている状態です。強烈な事実から精神を守るための防衛機制のようなもので、ショック緩和という意味では必要となりますが、訓練やリハビリといった行動には非協力的です。ここが長期化すると障害受容はどんどん遠のきます。

混乱期
やり場のない感情が怒りや悲しみや抑うつとして現れる時期です。悲憤による自傷や八つ当たりが激しく、家族や介助者や支援者といった周囲との軋轢も生まれやすいです。やり場のない感情を受け止める役割が求められ、独力での障害受容に限界も見られることでしょう。ただ、ここで止まっている人が普段どのような言動をとっているかは想像に難くありません。最終的に受容できるかは本人次第ですが、この時期は関わる人々の質や腕前も求められます。

解決期
否認と混乱を越え、様々な経験から今の自分に出来る生き方を模索しようとする時期です。同じ悩みを持つ人と交流するなど、新たな人間関係や周辺環境を構築し始めるのもこの時期で、折り合いをつけるための前向きな行動が目立ってきます。

受容期
自分の障害に折り合いをつけ「当事者」であることに納得した状態です。「まだ出来ることは残っている」「別のライフスタイルを知った」「新たな役割や仕事で生きがいを感じるようになった」など、新たな価値観で前向きな再出発が出来るようになります。

ただ何事にも個人差はあるもので、一足飛びに進む人もいればゆっくり進む人や行きつ戻りつする人、このプロセスに該当しない別の道のりで障害受容に至った例外なども存在します。いずれにせよ最後の目的が「折り合いをつける」ということには変わりないのですけれども。

それで障害受容が出来ていないというのは、この段階論でいえば否認期か混乱期で止まっている、あるいは間違った考えを受容と履き違えている状態を指すと思われます。支援者の力量や社会の受け皿が不足している側面もありますが、そこには敢えて触れず、最終的に正しい受容へ至れるかは本人次第という前提で話を進めます。

本人が受容できていないと

障害受容が不十分だとどのような問題行動を起こすのでしょうか。まず本人の場合は自分の障害を認めなかったり、逆に障害を盾にするようになったりと、同じ悩みを持つ不特定多数に対して生きることを邪魔するような行動をとるようになります。以下は一部の具体例です。

障害の存在否定に迎合
「発達障害は存在しない」と豪語するトンデモ言説に賛成する発達障害者がおり、理由を問われると「発達障害の存在が否定されれば自分が健常者になれるから」と答える出来事がありました。もし発達障害の概念が消えれば、支援や配慮も受けられず低スペック健常者としてもがき苦しむことになるのですが、そこに想像は至らないのでしょうか。否認期で止まっていると、概念を消して解決という勘違いを起こすのもあり得ますが、嫌なら一人だけ手帳を返納しクローズドで生きていけばいいと思います。

障害や不幸を盾にしだす
「障害だから」「昔こんな目に遭ったから」を盾にして我意を通そうとする手合いはよく見ますが、あれは障害受容とは程遠い開き直りか居直り強盗の類です。自称「○○サバイバー」がちょくちょく不幸語りに終始していて言うほどサバイブ出来ていないのもこれにあたります。当然、同じ障害や疾患などを持つ不特定多数のイメージにも悪影響を及ぼすので迷惑なことこの上ないです。

福祉支援の拒否
福祉支援とは自ら門を叩いた人にのみ開かれるものなので、障害受容すらしていないなら導線を知るどころか近寄ろうとも思わないでしょう。支援を受けるというのは、自力で人生をより良くしようという意思表示でもあります。嫌々受けているケースはあるでしょうが、それはただ被害者意識を肥え太らせるだけに過ぎません。

「ガイジ」表現の保護活動を始める
未受容の中には自ら「ガイジ」と言い放って予防線を張っているつもりの手合いもおります。予防線か再所有か不安定さか、いずれにせよ「ガイジ」表現を守ろうと躍起になる保護活動家という度し難い人種であることに変わりはありません。

身内の障害受容

身内、すなわち家族にも障害受容は必要です。もし出来ていないと本人の人生にとって良い選択肢を選べないばかりか、人格や存在を否定しつつ被害者感情は大きい我意ばかりの人間に成り果てるでしょう。そんな存在を身内に抱えるのは当事者本人にとって非常に不幸なことです。本人が生きることを家族として妨げる以上、「子ども大人」としての悪質度は一回り大きいです。

現実逃避に集中
「障害児は親を選んで生まれる」「親としての天からの試練」「この子は特別な天使」などと根性論やスピリチュアルじみた言説に傾倒するのは、障害者の身内が居る家庭としてはさほど珍しくありません。ただの比喩で言っているのならマシですが、問題は本気でそう信じ込んで現実逃避を決め込み、受けるべき医療や支援を拒否する場合です。

身内への存在否定
身内の障害受容が出来ないでいると、やがて本人の存在すら許容できなくなり、離婚して逃げたり上や下の健常児と差を付けたりと理性が欠如します。健常児で生まれてこなかったことへの被害者意識でいっぱいなので、虐待をしているという自覚もありません。寝屋川座敷牢事件の被告も「上の障害児は親の痛みを、下の健常児は親の喜びを教えてくれた」というメモを残しており、自身でなくても障害受容を怠ればこれほど幼稚になるのだという分かりやすい例となりました。

療育の拒否
身内の未受容も支援の手を拒む要素となり得ます。支援学級移行への打診を渋り、親切心を仇で返す事例は現実でも多く共有されています。保護者にとってもショックが大きいイベントなので心の準備が出来るまで焦らず見守ってほしいという意見もありますが、いつまでも障害受容せず子の学齢期を浪費するのは愚の骨頂です。子どもの一年というのは大人のそれに比べて非常に濃く貴重なので、悩み続けている暇などありません。

人生を奪われたと憎む
きょうだい児の中には障害の身内を中心に家庭が回っていて自分がいつも後回しにされていたと憤る者がいます。ヤングケアラー化したり進学先を制限されたり、お気の毒様な話もあるでしょう。しかし憎しみに囚われて呪詛を吐き続けるせいでより人生の質を下げていくのは自己責任です。人生を奪われたからと言って、その場で騒げば取り戻してもらえるなどというのは甘ったれの論理です。

停滞する者は養分でしかない

障害受容の停滞は、すなわち人生の停滞でもあります。迷い、悩み、戸惑いによって足を止めること自体は誰にでもあることですが、いつまでも後ろ向きにウジウジしている人間が自分らしい人生など送れる筈もありません。ひとり停滞するだけならまだしも、同じハンデの不特定多数の足を引っ張るのが迷惑でなければ何でしょう。

グチグチと呪詛を吐き続けていても、腐臭に群がるヘイターの養分にしかなれません。障害者アンチを気持ち良くしてつけ上がらせるのは、生きる権利への冒涜です。自分の不幸を盾に他人の生きる権利を脅かすくらいなら、やらねばならない「課題」を済ませたうえで出直してきてください。

参考サイト

障害受容について|総合リハビリ美保野病院
http://www.mihono.jp

遥けき博愛の郷

遥けき博愛の郷

大学4年の時に就活うつとなり、紆余曲折を経て自閉症スペクトラムと診断される。書く話題のきっかけは大体Twitterというぐらいのツイ廃。最近の悩みはデレステのLv26譜面から詰まっていること。

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